古い道具と綴じた帳面が並ぶ資料蔵の棚

蔵の歴史

天保九年、味噌屋が酒を仕込んだ

初代・藤野藤兵衛は、もともと雪見原村で味噌と醤油を商っていました。仕込みに使っていた村の湧き水が、近隣の水と比べて明らかに柔らかく、味噌の味が丸くなる。その水で酒を造ったらどうかと考えたのが、天保九年(1838年)のことです。当時の村には既に二軒の造り酒屋がありましたが、藤兵衛は量では勝負せず、湧き水を引ける場所に蔵を建てることに固執しました。現在も仕込み水を汲んでいる井戸は、このとき掘られた井戸のすぐ隣にあります。

雪解け水が石の間を流れる春の沢

明治・大正——谷の外へ

明治の中頃に鉄道が谷筋まで届くと、それまで村内で消費されていた酒が、県内の町へ、やがて東京へと運ばれるようになりました。三代目の代に、現在も使っている木造の仕込蔵と石造りの貯蔵蔵が建てられます。石蔵の壁には、当時の石工が刻んだ年号がそのまま残っています。この時期に酒の名を「藤兵衛」と定め、家印を丸に雪の結晶を組み合わせた現在の意匠にあらためました。

高い窓から光の差す、太い梁の木造蔵

昭和——企業整備令と、疎開した酒母

昭和十九年、戦時の企業整備令により、近隣の蔵との合同が求められました。多くの小さな蔵が銘柄ごと姿を消したなかで、五代目は仕込み道具一式と酒母を山側の分家へ運び、造りの記録を書き写して隠しました。終戦後、疎開させた酵母を使って再び仕込みを起こしたのが昭和二十二年です。蔵にはこのときの手書きの造帳が残っており、蔵見学の資料蔵でご覧いただけます。

湯気の上がる木桶の蒸米

昭和末——量から質へ

戦後しばらくは普通酒を主体に量を追う時期が続きました。設備を大きくする話も何度か持ち上がりましたが、六代目は仕込み本数を増やす代わりに、精米機を自社に導入して特定名称酒へ転換する道を選びます。昭和六十年に初めての純米酒を発売。当時は米だけで造った酒は売れないと言われた時代で、最初の三年はほとんど地元で消化しました。

木の升に盛った、磨いた酒米

平成——淡麗辛口と、その次

平成に入り、新潟の酒が淡麗辛口として全国で知られるようになると、蔵の酒も県外へ出るようになりました。七代目は流行に合わせて酒質を軽くしすぎることを警戒し、日本酒度を+4前後にとどめて旨味を残す設計を続けます。平成二十四年、蔵に積もる雪をそのまま冷熱源に使う雪室貯蔵庫を新設。電気を使わず摂氏三度前後を保つこの貯蔵庫が、現在の熟成酒とひやおろしの土台になりました。

雪を詰めた壁の前に酒瓶の木箱が並ぶ雪室

令和——八代目として

令和三年、八代目・惣一が蔵を継ぎました。最初に手を付けたのは酒米で、契約農家を四軒から六軒へ増やし、区画ごとに米を分けて管理する体制に切り替えています。同年、区画別に仕込む少量ラインとして「雪筵」を立ち上げました。造りの本数は増やさず、田と蔵のつながりを細かくしていくことが、今の蔵の方針です。

山あいに広がる初夏の田