
轆轤から始まった
1897年、初代の杢代惣吉は椀の木地を挽く職人でした。塗ることはせず、挽いた白木のままの木地を、塗師のもとへ運ぶ。それが三代続いた仕事です。当時この谷には同じような木地屋が何軒もあり、山から伐り出した木を数年寝かせ、乾いた順に挽いていました。工房にいまも残る轆轤の台座は、二代が据えたものです。

塗りを、自分たちの手に
転機は戦後です。四代の惣次郎が、木地を納めるだけでは自分の考えた形が最後まで守られないと感じ、工房に塗りの職人を迎えました。木地師が「ここは薄く挽きたい」と言い、塗師が「それでは下地が持たない」と返す。その言い合いができるようになったことが、この工房のいまの形をつくりました。1971年に加飾の職人が加わり、木から絵までが一つ屋根の下に揃います。

点数を減らすという選択
1990年代、家庭の食卓から漆の椀が消えていきました。産地の多くは価格を下げ、合成の素材と塗料で数を売る方向へ進みます。五代はそちらへ行きませんでした。年につくる数を三分の一に減らし、そのぶん一つに手をかける。売上は数年落ち込みましたが、残った器は十年経っても直しに戻ってきました。いま私たちが海外の方に見ていただいているのは、このときに残した仕事です。

直せることを、前提にする
2004年、工房に修理だけを担当する職人を置きました。自社でつくった器かどうかは問いません。祖母から受け継いだという名の分からない椀も、旅先で買ったという盆も、預かって塗り直します。この仕事を始めてから、新しい器の設計そのものが変わりました。塗膜が減ることを織り込んで下地を重ね、蒔絵は磨き直しに耐える深さで置く。直しの経験が、つくりに戻ってきています。

六代目として
私が工房に入ったのは、東京で建築の設計をしていた頃です。父に呼び戻されたのではなく、自分の設計した空間に置く器を探して、結局この谷に戻りました。海外のお客さまとお話ししていて感じるのは、みなさんが求めているのが「日本らしさ」ではないということです。なぜこの木なのか、なぜこの工程が必要なのか、どう手入れをして、壊れたらどうするのか。その説明ができる器だけが選ばれます。
代表取締役 六代 杢代惣一郎
